Maymaum’story 2月号

2月3日は大岡越前の日です。

1717(享保2年)のこの日、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が南町奉行に就任しました。

「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で有名ですが、在任

19年間の裁判は3回だけで、そのうち忠相が執り行ったのは1回だけだったそうです。

旗本が勤める奉行職で、特筆すべき功績を挙げた人物は江戸期を通じて何人もいるのですが、将軍に個人的な縁のない人が、平和時の表の役職の功績で、大名に昇格したのは、後にも先にも大岡忠相一人きりです

大岡忠相という人は江戸徳川体勢を通じても、非常に特殊な人物だったんですね。

1751年6月の吉宗の葬儀が最後の公務となり、このとき既に忠相自身体調が優れず、同年の11月に寺社奉行を辞して自宅療養したが、翌月の12月に亡くなっています。自分や幕府の事しか考えない政治家が多い中、彼はたいへん江戸市民の生活をまもるために力をそそいだ人物とありました。8代将軍吉宗の信頼が厚く、比較的有名な事跡ですが、主な業績を挙げてみると、当時大変力を持っていた両替商(りょうがえしょう→銀行のようなもの)を敵にまわしても、やすい商品を江戸に流通させようとしたり、問屋(とんや)→仲買(なかがい)→小売(こうり)という物流の組織を確立し、スムーズな流通機構をつくりあげたほか、町火消「いろは四十七組」を組織し、避難用地をふやすなど防災策をほどこし、貧窮者の救済のため小石川養生所を設立しました。

将軍である吉宗の反対をおして、米価安定のために実施された元文期(1736~41)の貨幣改鋳(かいちゅう)も彼の功績です。

町奉行時代の忠相の働き、ことに裁判関係の逸話は当時から後世にかけてまとめられ「大岡政談」として広く知られました。それら「名奉行・大岡越前守」の物語は講談や落語、歌舞伎になり、小説になり、やがて映画やテレビ時代劇にもなりました。
しかし「大岡政談」の内容のほとんどは、創作や別のところから引っ張ってきた話であり、実際の忠相とは関係がないことがわかっています。本当の大岡忠相とは、
徳川吉宗の改革を陰になり日なたになりして支えた有能な実務官僚と表現すべき人物なのでしょう。(れきたん人物伝・日々雑学より引用)